ねぶたを伝えた男たち:津軽魂を込め、制作を指導
青森から、ねぶたを伝えた男たち。左から野村孝志、長尾博、三浦圭、竹浪比呂央、手塚茂樹、柳谷明文の6氏
2007年の二世週祭のグランドパレードに青森から初参加した「ねぶた」が8年の時を経て今夏、再現され、あの感動がよみがえる。作者は前回と同じ竹浪比呂央師だが、大きく異なるのは、現地で制作したことだ。津軽魂を込めて、青森から制作技術を伝えた6人の男たちが、ねぶたの極意を語る。【永田 潤、写真も】
中型ねぶた「津軽海峡 義経渡海」 竹浪比呂央師が制作 竹浪師が制作した中型ねぶた「津軽海峡 義経渡海」は、本体を載せる土台を含め7パーツで構成する。青森ねぶたと異なり、上部(義経と白馬、金の龍の2パーツ)と、下部(波の4パーツ)に分けたのが特徴。運行後に分解して倉庫に収納できるように工夫したためで「立体のジグソーパズル」と表現するのがうなずける。 青森で組み上げた作品を運搬するためのコンテナと、小東京のねぶた小屋の入口の寸法に合わせ、幅約5メートル、奥行き約3・5メートル、高さ約3・2メートル、台車の高さ1・8メートル、全高約5メートルに設定した。 ねぶたの主人公・義経は、平泉で討ち死にした史実がある。だが伝説では生き延び、北へ逃れたという。津軽半島の竜飛崎に来た時に海に阻まれる。仏に念じたところ、仙人のような人が現れ「あの3頭の馬に乗って海を渡りなさい」。馬は、「龍馬」に姿を変え天に昇る。ねぶたには、3匹の龍が描かれている。竹浪師は、義経と在米邦人の境遇を重ね合わせ「どちらも新天地を求めて海を渡った。苦労したことだろう」と察し、作品に思いを込めた。
大きく見せる歌舞伎の動作
ねぶたの決めのポーズも
ねぶたは、見る人のことを考えて作り、見物人は下から見るため、少し前屈みになっている。各作品を「ぎゅー」と詰め込みながらも「窮屈さを感じさせず、明かりをつけた時に「外に飛び出すようなイメージ。そういうねぶたになると、みなが喜ぶ。そこが難しいところ」と語る。
寸法の制限がある中で、より大きく見せるためには、さまざまな手法を駆使するが「詰め込み過ぎて窮屈になったら、ねぶたは小さくなってしまう」と心に留め「細か過ぎて、ごちゃごちゃして、何が何だか分からなくなればまずい。コンパクトにまとめると、見る人に威圧感を与えることができる」と強調する。
ワークショップで、参加者に指導する竹浪比呂央師
ねぶたらしい決めのポーズがあり「手を広げたり、頭上に刀を配したりすると表現力は豊かになる」。基本的にねぶたの型は、歌舞伎の見えのポーズに似ているとし「舞台の役者の所作は、遠く離れていても大きく見える」と指摘。手を広げたり、足を踏ん張ったりするのも同様に「離れて見ての世界だから」。ねぶたの顔と目が大きいのは、デフォルメしているためで「歌舞伎と宝塚歌劇の役者も目を強調して、隈取りとか、シャドウとか、近くで見るとドキツク見えるけど、離れて見るとちょうどいい」と、共通点を説く。
「造形物に命を吹き込む」 ねぶた制作の醍醐味 立体表現の神髄について「単純な針金の組み合わせが、紙が貼られて、色が塗られて、明かりがつくと、何か化けるというか、別物になる。やめられない。一つひとつのパーツが動く造形物に生まれ変わる」と力説。制作の醍醐味は「作っていくうちに、何か別の命が吹き込まれていく。例えば義経自体が、何か訴えてくるようなものを感じながら作っていくものがある」。パレードでは「そういうことを、それぞれが感じてもらえればうれしい」と期待を込める。
「どんどん発展させてほしい」
ねぶた師・手塚茂樹さん
ねぶた歴は、高2からの24年間。学校にねぶた師が講演に来て「ねぶたに興味のある人は、現場に作業を見に来て下さい」。ちょうど夏休み直前で、夏休みに入ると「すぐに先生(千葉作龍師)の下を訪れた。手伝っている間に竹浪先生にも知り合った」という。
美術系の学校や美術部に属した経験を持たず「ねぶたが好きだったので、ねぶたに魅せられ、ねぶたに携わりたかった」と、情熱を掻き立てられ「本格的に勉強したくて、竹浪先生に弟子入りした」
下積み時代は、海外でねぶたを制作するとは夢にも思わず、印刷会社に勤めながら勤務後の夜や休日を、ねぶた制作の修業に当てた。師匠の手伝いをこなしながら学びとり、腕を磨いた。6年前に退職し「ねぶた研究所」に入所。研究所の職員として籍を置き昨年、念願のデビューを果たした。
「見送り」と呼ばれる背面に龍を描く手塚茂樹さん
ロサンゼルス訪問は2度目で「前回は完成品だった」に対し「今回は、実際に針金を曲げたり、色を塗ったりした。特に現地の人とも一緒にねぶたを制作したことが大きい。思い出になった」と話す。「毎日、この場所でねぶた囃子を聞いて、津軽弁を聞いて、何だか青森にいるような感覚があって、あっという間の9日間だった」と振り返った。 ねぶたが日系社会に根付いたことを肌で感じ「ねぶたが与えるインパクトと、人を引きつける力は、万国共通だと思った。言葉とかを超えて、ねぶたには、やっぱり感じるものがあり、そういうものが共通だと、あらためて思った。こうやって、ねぶたを大事にしてもらってうれしい」と喜ぶ。 8年ぶりの再訪米について「2回目はないと思っていたけど、まさか夢の2回目ということで、みなさんと制作の時間を過ごせたことが、本当にありがたく、自分の糧にもなった」と感謝に堪えない様子。 ワークショップの参加者に向け「みなさんはアメリカ本土で、ねぶたを制作した歴史上初の人物と言っても過言ではない」とたたえる。「それを手伝いできたわれわれも、本当に誇りに思う。これからもLAねぶたをみなさんで、どんどん発展させてほしい」と切に願いつつ「もし次があるのなら、私の作ったねぶたも参加させてほしい」と、米デビューの野望を抱く。
「習う姿勢、勉強になった」 ねぶた師志望の野村孝志さん 五所川原の「立佞武多」が原点で「幼稚園のころから慣れ親しんでいた」という野村孝志さん。ねぶた制作は社会人になってからで、竹浪師に師事して15年ほど経つ。制作では、手足や紙の作業を主に、全行程を行う。 将来は独立して、ねぶた師を志し「子どもの頃の何かを求めているかもしれない」と話す。父親を持たず、女手一つで育てられた幼少時の家庭は貧困だったため「遊ぶゲームも何もなく、自分の心が揺さぶられたのが『ねぶた』だった」。その時の憧れを忘れず持ち、今実
ろう描きの技法で、龍のウロコを描く野村孝志さん
現させようとしている。制作に打ち込むと「自然と体が動く。身を削って、時間を削って、やってしまう」と語る。 技術指導では、色のぼかしや、ろうの塗り方などを教えた。「直接教えるというよりは、みなさんの仕事を作るための骨組みを整えた感じ。みなさんの習う姿勢が勉強になった。1つのことをプロ級(すし職人や、建築士、電気技工士など)にやってきた人たちが、また違った、ねぶた作りを一から習うという姿勢は今の日本人にはない。こっちの人の方が、すごいと思う」 今回の作業では「ロサンゼルスにいる意識はなかった」という。「一人ひとりの個性、才能を発揮できる場がロサンゼルスにはある。みんなで楽しく、生活できている」と感じる一方で、現在の日本は「すごく理想とかけ離れている。ここに来て逆に教えられたかもしれない。帰ってからは、みなさん一人ひとりのことを忘れないで大事に生きていきたい」
「LAのオリジナル性を」 三浦圭さん、囃子でも活躍 木の枠組みを主に受け持つ三浦圭さんは「針金だけだと、どうしても弱いので、紙を貼る
木枠に針金を付けるためのネジを取り付ける三浦圭さん
まえの下地を木を使って固めて強度も出している」と説明する。「木の枠と、針金の枠をつなげる部分が結構、重要で、これがないと紙を貼ってもブレて、紙が破れたり、よれたりする」といい、参加者には「強度を出すコツとして、(枠組みの本体を)叩いて、揺れたところに均等に針金を入れるように」と教えした。「習うみんなは、情熱があって向上心があった。本格的にやるのは初めてだったと思うので、LAのオリジナル性を出してほしい」と伝えた。 稼業は塗装工で、普段の油性塗料に対して「ねぶたは、水彩で紙に塗って透かせるのが特徴」と違いを説く。ねぶたの魅力について「一年に一度のために作る。壊すが、また次の年にはまた頑張ってみんなのために作って、みんなに勇気を与えることができること」と話す。囃子で活動して20年が経ち、ねぶた歴よりもはるかに長い。
「達成感がたまらない」 針金で枠を組む長尾博さん 針金で枠組みを整える作業を主に担当した長尾博さんは、2度目の二世週祭参加に「今回
木枠に針金の枠組みを取り付ける作業を行う長尾博さん
も楽しくやらせてもらった」と笑顔を絶やすことはなかった。青森では建設業を経営するかたわら、子どもねぶた(縦3×横4メートル)を作っている。女性スタッフに紙貼りを手伝ってもらう以外は全部1人でこなすという。 「覚えていない」というねぶた歴の中で、これまで7台を制作。ねぶたの面白さは「全部他のことを忘れて没頭できること」といい、「(制作を)やりたくて、やりたくてたまらない。そう考えただけで、鳥肌が立ってくる。仕上がった次の日から、次のがやりたくなる。みんなに喜んでもらえるし、達成感と優越感がたまらない」 LAに文化を伝え「『教えた』と偉そうなことは言えないけど、青森のねぶたをこちらの人と一緒に作ったことが、本当に感動した。みんなで作り、時間を共有できてうれしい。みなさんは本当に一生懸命だった」
「一緒に作り楽しかった」 紙貼りの柳谷明文さん 紙貼り専門で、ねぶた歴は16年。元競輪選手で、今は裏方で競技の審判など運営面で支
ワークショップの参加者に紙の貼り方を教える柳谷明文さん(左)
える。
「紙貼りに魅せられた」。その面白さについて「難しい部分をうまく貼れた時の感激。特に顔をきれいに貼れた時がうれしい。針金に紙を貼ってやっと、ねぶたの形が見えてくるのが魅力」と、役割を誇る。
「色を塗ってもらうと、また一段とねぶたらしくなり、携わってよかったなーと思う。それに明かりが入れば鳥肌もの」と、うれしさは増す。さらに「お囃子が入ると、何とも言えない感激があり心が騒ぐ」と、興奮は収まらない。
難しい個所の貼り方のコツを「立体感が出るように、膨らみを持たせて、糊代の太さは均等に」などと、丁寧に教えた。参加者について「初めてなのに、すごく速く、うまく私が見習いたいほどだった。みんな前向きで意欲があった」と誉めた。「一緒に作業して楽しかったので、またワークショップに来たい。今度は立場が逆転して、私が教えられるかもしれない」
竹浪師から基礎を直伝
「みんなの努力の結晶」
囃子保存会の山村俊夫さん
囃子保存会で笛を吹く山村俊夫さんは、今回が3個目の子どもねぶた(ねぷた1個を含む)を手がけた。これまでは、我流だったが、竹浪師から基礎を直伝された。
自身3つ目制作のねぶた「那須与一 扇の的」にLED電球をつける作業を行う山村俊夫さん
テーマを「那須与一 扇の的」に決めたのは、メーンの中型ねぶた「義経」にかかわりがあり、同時期に壇ノ浦で戦った武将としてふさわしく、また末裔は青森・弘前に住んでいるから。与一は、弓の名士だったので、騎乗し弓を引くイメージにした。
骨組みはデザインを優先させたため「針金が多くなり過ぎて、紙貼りの職人さんに『貼るのがたいへん』と指摘され、切って減らした」といい、無駄を省き、軽量化にもつながった。
平面上に物を描くのは容易だが、ねぶたは立体のため勝手が違い「手を作品に触れずに浮かして描かねばならず、慣れるのに時間がかかった」。そして「ろう描き」と「ぼかし塗り」の技法を学んだ。
ろう描き(混色を避けるため境界線を入れる作業)で、ろうは低温だと固まり、筆にも紙にも滲まず、逆に高温だと煙が出て発火し火事になりそうになった。2度描きは不可能で「特に細い線を溶けないうちに描くのが難しかった」
ワークショップの参加者に紙の貼り方を教える柳谷明文さん(左)
水彩画独特の、ぼかし塗り(内側からの光を透かす技法)を参加者みんなで習った。ベタ塗りだと絵が浮き上がって見えないため、ぼんわりと見せる効果である。刷毛の先3分の1に染料を付け、残りの部分を水を付けてぼかすのだが「9日間ではマスターできなかった」ため、今後の大きな課題だ。「将来は大型ねぶたを作るのが夢」だとし「まだまだスキルが足りない。やはり青森に行かなければならないと思う。竹浪先生らに教えてもらったことを地元の人に教えたい」と意欲を示す。
竹浪師からは「相撲とりのように手と足を短く(デフォルメ)して、顔を大きくして目立たせればいい」とアドバイスされた。さらに、顔の透しは「中心を濃くして、輪郭をぼかすように」と。顔面の描き方のコツを教えられ「竹浪先生が強調する『ねぶたは顔が命』ということを思い知った」
制作期間は、骨組みに1カ月、紙貼りに3人で1カ月以上、絵を描くのに1カ月半、最後の作業に約1カ月、全行程で約5カ月半を要した。甲冑のデザインと、その他の部分の色の選択は、囃子会の女性メンバーから意見を取り入れ、また塗ってもらった。「紙貼りもしてもらい、作者は手伝ってもらった人全員。1人では絶対にできなかった。みんなの協力でできた」と強調する。
晴れ舞台のパレードでは「一生懸命作った『みんなの努力の結晶』を見てもらいたい」
背面の「見送り」の部分の龍の輪郭を描く竹浪比呂央師(左奥)と手塚茂樹さん
波の部分のろう描きを行う長尾博さん
針金の骨組みに紙を貼るワークショップ参加者
紙を貼る囃子保存会のメンバー3人。格別の思いで、パレードに出ることだろう
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