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Writer's pictureRafu Shimpo

作家の下嶋哲朗さんが講演へ:比嘉太郎の人物像を語り継ぐ

比嘉太郎の長男アルビンさん(左)に太郎の父親像を聞いた下嶋さん

 第2次大戦で日本唯一の地上戦となり疲弊した沖縄の救済運動の中心となったハワイ出身、沖縄系帰米2世の比嘉・トーマス・太郎(1916―85)の人物像を語り継ぐ作家の下嶋哲朗さんがこのほど、講演会(7月1日、ガーデナ)に備え南カリフォルニアとハワイ各所を訪れ、10日間の取材を行った。戦後、ハワイを拠点に米本土、中南米に支援の輪を広め、550頭の豚や食料、医療品など救援物資を送った活動を紹介するとともに「戦争や差別が続く今だからこそ、比嘉太郎の業績とウチナー精神(ウマンチューの宝)を学び、現代の社会に役立ててほしい」と願う。【永田 潤】

 第442連隊に属した最前線で「沖縄は、イタリアよりもひどい目に遭う」と、惨状を察した比嘉。重傷を負って除隊したものの、ハワイに戻り傷が癒えるやいなや沖縄戦に志願した。1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸。同月20日に部隊に合流した比嘉は、洞窟に潜んでいた住民に投降を呼びかけ、多くの命を救った。  除隊したにもかかわらず、沖縄戦に再志願したことに下嶋さんは「戦争の勝ち負けにかかわらず、沖縄の救済のために行ったのだろう」と分析。3歳から9歳まで過ごした第2の故郷沖縄の想像を絶する惨状を、使命感を持ってハワイの日本語新聞に電文で投稿したといい「どうやって沖縄に物資を送るかを考え、救済運動を呼びかけていた」と称賛する。同年9月にハワイに戻り報告会を開き、沖縄の悲惨な状況を知った沖縄系の同胞が立ち上がった。  「JACL(日系市民協会)」を通じて、各所の収容所を回り講演し、支援を呼びかけた。イタリアでの戦場の様子や沖縄戦について語る行脚は40日間の予定が7カ月に延び、人前で話すのが苦手だったが、会話好きになるほど熱を込めたという。米国家への忠誠の誓いと従軍意思を否定した通称「NO NO BOY」の多くが収容されたツールレイクの1カ所だけは、当局の拒否に訪れていない。   戦場体験を事細かに書き残している。多くの戦友が命を落としたイタリア戦線では、現地の女たちが日系兵が来ると寄って来た。金欲しさに体を売り、たばこ1カートンが1パックに値下げという事態も起きた。太平洋戦線では、米軍がサイパン、グアム、フィリピンに勝利すると、次は沖縄が攻められると予想。下嶋さんは「イタリア、ドイツは兵隊。だが日本は『一億皆兵』だから、民間人が狙われると比嘉は心配したのだ」 人種、宗教、差別を乗り越え 広まる支援の輪「地球の半分」  救援運動は、ハワイのウチナー(沖縄)社会から始まり、キリスト教団体のみならず、さまざまな宗派が支援し、ロサンゼルス、ニューヨークの米本土にも飛び火した。支援の輪は、中南米諸国にも波及したことに下嶋さんは「地球の半分が協力したことになる」と驚く。1年も経たないうちに100万人が協力し、800トンもの医療品が寄せられた。米国赤十字社を通し、従軍牧師が連絡を取って米海軍を動かし、物資の輸送手段を確保した。

第442連隊に入隊し、通訳兵としてイタリア戦線に赴いた比嘉太郎

 救援物資は当初、衣服や薬品、食料だったが「生産につながって、生活を喚起し、自立するためのものを」と、種や釣り針、そして豚などを送った。比嘉が豚に着目したのは「豚の国(琉球)なのに、豚がいないから『豚を送ろう』」。下嶋さんは、比嘉が中心となり豚を送った活動を一冊の本「海から豚がやってきた」にまとめた。同書を原作にしたミュージカルが2004年にハワイ、翌05年にはジョージ・タケイなどが演じ、昼夜2回にわたりトーレンスで公演され好評を博した。  下嶋さんによると、ウチナー(沖縄)とハワイは、豚を飼育する習慣で共通点があり、一方の日本は「士農工商」制度の名残りがあったため、「豚など…」と差別したと指摘する。そして当時のハワイでは、ウチナー系のレストラン経営者が豚肉料理で成功していたが、現地の日本人からは少なからず差別を受けていたという。だが救済運動で皆が心を一つにし「ウチナーと大和(日本人)が差別を乗り越え、ハワイから人種、宗派を越えアメリカ本土に運動は広まった。その中心が比嘉太郎だ。この沖縄の救済運動から、比嘉太郎の精神が今こそ生かされる」と強調する。 家族とともに沖縄へ移住 下嶋さん「考えられない魅力」  下嶋さんは、長野生まれ。グラフィックデザイナーとして権威ある賞を受賞するなど活躍したが、34歳だった1975年に妻と2歳、4歳の息子2人を連れて沖縄・石垣島に移住した。「何といい所なんだ」と1年安住したのは、青い空、青い海など美しい自然のみならず、現地の人々に受け入れられ愛されたからだ。「大和(日本)にある村八分はない。島なので外から来た人に興味があり誰でも歓迎。優しく、親身になって考えてくれる」。東京にあった人間関係のこじれなどは皆無だった。  部落集落の石垣島は、自給自足の生活のため「魚をとり、肉(豚、鶏など)や野菜、くだものを自分たちで育てる」。社会に溶け込もうとし「近所に行って、いろんな野菜の作り方を習い、『学びたい』が伝われば、実に親切にしてくれる」。人々が助け合い、キャベツ、バナナが家に投げ込んである。家は鍵もかけず、黒砂糖、お茶があり、誰が食べてもいいし、置いてある傘を使ってもいい。「そういう暮らしをさせてもらった」。送別会を野外で開いてもらい、三線演奏や酒でもてなされ、各々がスピーチして別れを惜しんだという。「溶け込めた。沖縄には、普通では考えられない魅力がある」と、しみじみと語る。  「島社会には元々、助け合いがあるが、『助ける』気持ちを持っているのではなく、『助ける』のが当たり前だと思っている。よき共同体から今、学ぶ必要がある」  一方で、琉球国が日本に統合されてから、文化や民族間の関係が日本に組み込まれ、沖縄が日本人化したことを嘆く。沖縄にとって重要な史実としての比嘉太郎らの救済運動を知る人は少なく、またウチナーの精神も薄れつつあることを下嶋さんは危惧する。

世界のウチナーの団結力 救済運動のパワーの源に  下嶋さんは米国の日系社会に関心を持っており、特に「2世のことを知りたい。日米の狭間で、どちらも見ているから」と語る。「大和社会(日系社会)がバラバラなのは、1世、2世の苦しみを3世、4世は分からないのでそうなってしまう」と説く。他方のウチナー2世については、石垣島に暮らした経験から、沖縄と似ていて横のつながりが強いといい「ロサンゼルスのウチナーはまとまっていて、ハワイのウチナー社会も並大抵の絆ではない。それぞれが脈々とウチナーの精神を守っている。代を重ねてもウチナー祭(5年に1度、沖縄で開かれる世界のウチナーンチュ大会)に参加するのがうなずける」  「ウチナー1世は、年がら年中働いていた。その苦労して働いている姿を見ていた2世に託し、3世が受け継いだ。今のハワイの土地やビジネスは、ほとんどが3世が持っていて、財産のみならず、『ウチナーの精神』も受け継いでいる」と説明する。「ウチナーであれば、目と目が合えば何を言いたいのか分かるように、世界のウチナーには団結力がある」と力を込め、こうした結束の強さが救済運動のパワーの源になったと見る。

7月1日、ガーデナで講演 「若い世代に聴いてほしい」  下嶋さんは、講演に備え昨年8月から資料を収集し、今回の訪米では比嘉の4人の子供たちにインタビューした。講演では「太郎さんについて語るけど『おもしろい話だね』、だけで終わらせてはならないので、それを生かすために、気持ちを込めて話したい」と心がけ「この運動を時代を超え、どう現代に生かすか。青春期の若い人に聴きに来てもらいたい」と、期待を込める。20年前から構想があったという比嘉太郎についての執筆も同時に進めている。  講演会は7月1日(日)午後2時から5時まで、ガーデナのケン・ナカオカ・センター(1670 W. 162nd St.)で開かれる。下嶋さんは日本語で話し、英語の通訳がつく。講演の合間にエンターテインメントとして、琉球祭太鼓や琉球舞踊などが披露される。  入場料は、寄付の10ドル。詳細は上原さんまで、電話213・680・2499。メール― tamiko.uyehara102239@gmail.com

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