平和への願いを込めて:世界に衝撃与えた世紀の一枚
LA在住で親日家としても知られるピュリツァー賞受賞の報道写真家のウト氏(左)とフックさん
「今も私の腕と背中には痛みが残るのです―」。ベトナム戦争で全身にやけどを負い、泣きながら逃げる少女の姿を捉えた写真は全世界に衝撃を与え、後に世紀の一枚と呼ばれた。「戦争の恐怖」と題したこの写真でピュリツァー賞を受賞し、現在ロサンゼルスを拠点に活動し親日家としても知られる報道写真家のニック・ウト氏と、同氏が撮ったベトナム人少女で現在はカナダ在住のキム・フックさん(52)がこのほどLAで会い、当時の戦争体験、そして平和への願いを語った。【取材=吉田純子、写真も】
突然村を襲った爆撃 全身やけど負い逃げる少女
戦争が少女の運命を変えた。1972年、6月8日、この日はフックさんにとって生涯忘れられない1日となった。
フックさんが住んでいたのは南ベトナムのタイニン省チャンバンの小さな村。当時、ベトナム戦争で南ベトナム軍と北ベトナム軍は戦闘を繰り返していた。
この日、村の住民は寺院に避難するよう指示が出された。子どもだったフックさんには戦争のことなど分かりもしない。寺院は神聖な場所で絶対に安全だと信じていた。「まさか恐ろしい爆弾が空から降ってくるとは思いもしませんでした」
突然、寺院に兵士が飛び込んできて「逃げろ!」と叫んだ。どこからともなく聞こえてくる戦闘機の音。音はどんどん近づき大きくなってくる。フックさんは恐ろしくなって寺院を飛び出した。
村人も一斉に逃げ出したその時、ナパーム弾が投下された。燃え盛る炎、引火したガソリンの臭いがあたり一面に広がり、フックさんの着ていた服は一瞬にして燃えてなくなり、皮膚は焼けてはがれ落ちていった。誰かが泣き叫んでいるのが聞こえた。「ノウワ、ノウワ(熱い、熱い)!」。その声は自分の声だった。
走って逃げるフックさんの視線の先に、カメラを抱えた青年の姿が見えた。AP通信社ベトナム支局で駆け出しのカメラマンをしていた当時20歳のウト氏だった。
ウト氏は取材のため早朝から村の付近にいた。その日もたくさんの爆撃が起こっていた。取材を終えサイゴンに戻ろうとした時、ふと空を見上げると戦闘機が近づいて来るのが見えた。その直後、突然爆発音がとどろき、村人が逃げてくるのが見えた。子どもから老人まで、中には小さな幼児を抱きかかえ助けを求めて逃げ惑う女性の姿もあった。「爆撃で全身にやけどを負ったその赤ちゃんは女性の腕の中で亡くなりました」
フックさんの講演会で映し出されたスライドの写真。当時9歳だった彼女は爆撃を受け、全身にやけどを負った。そしてウト氏が撮った「戦争の恐怖」と題したこの写真が後にピュリツァー賞を受賞。世紀の一枚として語り継がれている
「私はとにかく起こっている現状を収めようと必死になってカメラのシャッターを切りました。すると泣きながら走ってくる女の子がこちらに近づいてきたのです。それがキムでした。彼女が走ってこちらに向かってくる時、私はシャッターを押しました。それがあの一枚です」 写真は翌日のニューヨークタイムズ紙の一面を大きく飾り、全世界に戦争の恐ろしさが伝えられた。後にピュリツァー賞を受賞したこの一枚が、ベトナム戦争を終結へと導いたといっても過言ではないと言う人もいる。
奇跡的に一命取りとめる
「これは大変だ!」。全身に大やけどを負ったフックさんにウト氏は必死になって水をかけた。そしておぶって自分の車まで運び、近くの病院に連れて行ったという。
3日後、離ればなれになっていたフックさんの両親が彼女を探しあて、病院にやってきた。重度のやけどを負った彼女の姿を目にし、誰もが助からないと思ったという。実際、フックさんは死体安置所に寝かされていた。しかし奇跡は起きる。
フックさん(右)の腕に残るやけどの傷跡に手を触れる子ども
父親が偶然にも旧友と再会し、その友人が病院で働いていたことが幸いし、設備が整った別の病院に移れることになったのだ。ウト氏とともに現場にいた英国人ジャーナリストも協力し、無事転院し、14カ月の入院生活の末、命をつなぐことができた。 フックさんはこれまでに17回の手術を受けている。最初の手術はドイツで行った。しかし手術は毎回困難を極めた。なぜなら彼女は顔と手以外、すべてに重度のやけどを負っていたからだ。術後、退院しても痛みに耐え、辛いリハビリ生活を送らなければならなかった。 「他の女の子のように半袖のブラウスを着ることが出来ない。男の子が私を愛してくれることは一生ないだろう。結婚することもないだろう―」。まだ幼い少女の心は絶望感で打ちひしがれ、やけどの傷跡は心の奥深くにまで染みわたっていった。
医師を志すも断念 戦争のシンボルとして利用される日々 カナダに決死の亡命図る
「やけどの治療をしてくれた医師たちはヒーローでした。いつしか私は人を助ける仕事に興味を持ち、医師を志すようになったのです」 フックさんは1982年にサイゴンの医学学校に合格した。「もう普通の生活を送ることはできないと思っていた。だから合格した時はすごく嬉しかったのを覚えています」。しかし喜びは束の間、そう長くは続かなかった。 「ベトナム政府が私を見つけ出し、戦争のシンボルとして利用しようとしたのです」。ある時、警察官が学校に押し掛けてきて彼女を連れ出し、外国人記者からのインタビューを無理やり受けさせたという。「まるで彼らは私をコントロールしようとしているかのようでした」 「私は医師になる夢に向かって勉強するためひとりになりたかった。でも彼らは私が何をしたいかなど気にもとめなかった。人生で最悪の時でした。『なぜいつも私ばかりがこのような辛い目にあうの?』毎日怒りに震えていました。私はまた戦争の犠牲者になったのです」 86年、ベトナム政府はフックさんにキューバに留学する許可を与えた。「『なぜキューバなの?』と疑問に思いましたが、共産主義国家であるキューバなら私をコントロールしやすいと考えるのは比較的容易なことでした」 キューバには6年間滞在し、ハバナ大学で勉学に励んだ。キューバにいた時も自分を苦しめた人、環境すべてに対する怒りが毎日彼女を襲った。また同時期に健康上の問題で医師への夢を諦めざるをえなくなった。 しかし悪いことばかりではなかった。フックさんはキューバで人生の伴侶となるベトナム人のBui Huy Toan氏と巡り会った。1992年に2人は結婚。ベトナム政府からハネムーンのためにモスクワに行くことが許されたが、「その時もまた『なぜモスクワ?』。という疑問がよぎりました。でも当時の私たちに選択の余地はありませんでした」。 そしてハネムーンの時にまたしても転機が訪れる。キューバへの帰りの飛行機がカナダで給油のため1時間止まり、2人はその1時間の間にカナダへの亡命を果たしたのだ。お金もなく身寄りもなかったが、しばられていた生活から抜け出し、夫とともに新たな人生を歩んでいくことを決意した。
怒りで黒く染まった心 「許すことは兵器よりパワフル」
ベトナム戦争に出兵した元米兵(左)から和平の象徴としてスカーフを手渡されたフックさん
どうしたら心の平安を取り戻し、前に進むことができるのか―。ある時、考え方を変えなければ苦しみから抜け出せないのだという答えにたどり着いた。 この時期に「なぜ自分ばかりが辛い目にあうの?」と問うことをやめたという。 「爆撃で3歳と9カ月の従兄弟2人が目の前で亡くなりました。1200度の炎にさらされ全身に大やけどを負い、死んでもおかしくなかった。しかし、自分は生きながらえ、幸いにも手と顔は焼けずに済んだ。こんなに幸運なことはあるでしょうか」 カナダでの生活は確実にフックさんを憎しみから解放していった。 「私の心はまるでブラックコーヒーが注がれたカップのようだったのです。怒りや憎しみでどす黒く染まった感情でいつも一杯になっていた。どうにかしてぬぐい去ろうとしても、すぐにブラックコーヒーで埋まってしまう。しかし心の平安を取り戻しこれからの未来を生きていくには、自分を苦しめてきた人、環境を許さなければならないと思い始めたのです」 許すことは人生でもっとも困難なことだった。しかしそうするうちに心のブラックコーヒーは少なくなり、次第に透き通るようなきれいな水で満たされていくようになった。 「許すことがどんな戦争の兵器よりもパワフルだと悟ったのです」
写真家と少女の友情 親日家のウト氏 戦争後、日本に滞在
現在は家族ぐるみで仲が良いウト氏(左)とフックさん
戦争で出会ったフックさんとウト氏は今では家族ぐるみの付き合いで、旅行に行くほど仲が良い。2人は日本にも旅行で訪れているという。
初めて2人が再会を果たしたのは写真が撮られた17年後のことだった。
しかしウト氏によると、同氏はフックさんがやけどを負い病院に入院した後も、心配でたまらず度々病院に足を運んでいたという。「会いに行くと彼女はいつも笑顔でした。でも彼女が本当に幸せかなんて誰にも分からないのです」。彼の目には笑顔のフックさんが悲しそうに見えてならなかったという。笑顔の陰に苦しみが潜んでいたことにウト氏はこの時から気付いていた。
フックさんはその後、1994年にユネスコ親善大使に任命され、97年にはキム財団を設立。カナダ・ヨーク大学の名誉法学博士を務めるかたわら、自らの体験をもとに反戦を訴え、国際的な活動家として戦争や紛争で犠牲になった子どもたちに医療や精神面での支援活動を行っている。やけどの傷痕のケロイドは今もフックさんの全身に残っている。
ウト氏は写真を撮った翌年、21歳の時にニュース速報写真部門でピュリツァー賞を受賞。最年少での受賞となった。現在はAP通信社LA支局に勤務し、日々ニュースを追っている。
実はウト氏、米国に移住する前、日本で2年間暮らしていた。ベトナム戦争後、AP通信社の東京支局に勤務し、当時阿佐ヶ谷に住んでいたという。
現在AP通信社LA支局に勤務するウト氏(写真左)は今もLAの至る所で報道写真を撮り続けている
同氏は今も当時の思い出がよみがえると話す。「日本の新聞各社のジャーナリストたちと毎晩のように新宿でビールを酌み交わしていました。本当に楽しい2年間でした」。その時に出来た友人とは今も親交があり、訪日するたびに会っているそうだ。 日本が大好きと豪語する同氏はその後も度々日本を訪れ、今年も訪日を予定している。「ちょうど2年前にも日本を訪れました。ニホンザルの写真を撮るのが好きなのです」と写真家らしい一面も見せてくれた。どうやら今年の干支の「猿」に夢中のようだ。
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