忘却を誓う心の悲しさよ
物事や人物を判断するとき、人はややもすると先入観に左右されることがあるし、勘違いや錯覚で、読み違いをすることだってある。 東京で初めて目にした「マンガ喫茶」の看板を「ガマン喫茶」と読み違え、はたして何をガマンするのかといぶかったり、健康食品「ウコン」の宣伝を見ると、なぜウンコが体に良いのかと、一瞬思ってしまったりする。
こうした失敗は、すでに脳ミソにしみ込んでいる単語や知識が優先的に作用して起こる間違いで、いわゆる頭がボケる状態の認知症のためではない。 人は誰でも年を重ねるにつれ、物事を考えたり、理解したり、記憶したりする機能が衰えてくる。物忘れをするようになって当たり前だ。 健康な人の物忘れは、例えば「お金(へそくり)の置き場所を忘れた」とか「ドクター・アポイントメントをうっかり忘れた」というように、自分が忘れたこと自体は覚えている。これが認知症になると、その出来事自体を忘れる。自分が忘れていること自体を忘れているので、体験の喪失ともいわれる。 健康な人の物忘れと、認知症の物忘れは異質なものなのだが、ある集まりで、カラオケ大好きな友が来るやいなや「見て見て、聞いて、これ!」と言ってYouTubeの音楽を流す。歌手で女優の森山良子が自作の「あれあれあれ」を、身振り手振りでコミカルに熱唱している。 森山といえば、デビュー当初、心が洗われるような透きとおった歌声でフォークソングの女王に輝き、67歳の現在も、その優れた歌唱力と巧みな大人のおしゃれトークでステージを沸かせ、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章を受けた逸材。 そんな彼女にも老化の波は遠慮なく押し寄せてきて、毎日の生活の中で「あの人、あの店、あの俳優の名前が思い出せない」のは日常茶飯事とか。「あれ、これ、それ、あそこ、ほらあれよ、あれあれ!」なんて単語のオンパレード。 物忘れは誰にでも普通にあることだから気にすることはない。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」と流れる『君の名は』のナレーションを記憶されている人は、まだ認知症とは無縁な健康人です、ご安心を!【石原 嵩】
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