日系被爆者:オバマ大統領の広島訪問歓迎【上】
左から据石和さん、更科洵爾さん、ハワード蠣田さん、難波亘さんと礼子夫人
5月27日、オバマ大統領は現役の米国大統領として初めて広島を訪問した。これは、日本とアメリカ両国にとって歴史的な出来事であり、特に、戦後移住者を含む日系アメリカのコミュニティーにとっては大きな意味のあることだといえる。それは、南カリフォルニアには、米国が広島と長崎で使用した原子爆弾の影響を直接受け、戦後もずっとその影響を受け続けてきた被爆者や彼等の子孫が多く住んでいるからだ。【中西奈緒、写真も】
帰米3世のハワード蠣田さん
オバマ大統領の広島訪問に先駆け、22日、米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバー4人が小東京の高野山米国別院に集まり会見を開いた。ASAによると、アメリカにはおよそ1000人の被爆者がいて、その多くが西海岸とハワイに暮らしているという。
オバマ氏の広島訪問を切に願っていたASAのメンバーたちは、その家族、友人たち、他の団体の協力を得て1000通のポストカードをホワイトハウスに送る活動をした。ジョン・ケリー国務長官が4月11日に広島を訪れたことがきっかけとなり、1人1人が手書きでメッセージを送ればオバマ氏も訪問してくれるのではないかと期待を込めたという。実際、彼らの願いは現実のものとなった。会見では、4人の被爆者たちが過去の経験や、オバマ氏の広島訪問について思いを語った。
◎被爆者たちの声
「大統領の広島訪問に心から賛同する。核が拡散しないよう世界中と連携を強めてもらいたい」と話すのは帰米3世のハワード蠣田(かきた)さん(78)。
「謝るべきかどうか注目されているが、その必要はないし意味がない。あれからもう71年。オバマ氏が悪いのではない。謝るべきなのは原爆を落すと決めた当時のトルーマン大統領とその政権、そこに関わった人間だと思う」と話す蠣田さんは、1936年3月16日に帰米2世の両親のもとイースト・ロサンゼルスで生まれた。広島に住む祖父が病気で命が短いということで日本に会いに行った際、被爆地から0・8マイル(約1・3キロ)の所で被爆した。7歳の時だった。
8月6日は「とてもきれいな朝だった」という。登校中、空襲警報が発令されて休校に。原爆投下の音も光も聞こえなかったが、数分後、瞬時に吹き飛ばされて大量の瓦礫の中に埋まっていた。体は奇跡的に無事で、弟も少しやけどをしたくらいですんだ。「周りには体から骨や内臓が飛び出していたり、肌がひどく焼けて皮膚が体から垂れさがっていたり、死体もとてもたくさんあった」と当時の悲惨な様子を語った。
原爆投下から数カ月後の写真。一番右がハワード蠣田さん、その左となりが祖父、そして兄のケニーさん。原爆の影響で髪の毛がなくなってしまった。
帰米2世の更科洵爾さん
帰米2世の更科洵爾(さらしな・じゅんじ)さん(87)は、ハワイのマウイ島ラハイナで生まれ、7歳で日本語を学びに広島へ。軍需工場で働いていた16歳の時に被爆地から1・5マイル(約2・4キロ)のところで被爆した。「とてつもなく大きな爆発と明るいオレンジの光が見えて飛ばされた」と話し、幸運にも自分自身にけがはなかったが、5000人、6000人という死体を見たという。
更科さんはオバマ氏の訪問をとても喜んでいる。オバマ氏自身が被爆の悲惨な状況を見て感じてくれることが大切だとし「謝罪については賛否両論あるだろうが、訪問は原子爆弾を廃絶するための大きなステップ。私たちだけでなく、子ども、孫、その先の世代の命を救うことになる」と期待を寄せる。
原爆が投下された時の様子を表現する据石和さん
1927年1月26日にパサデナで生まれた帰米2世の据石和(すえいし・かず)さん(89)は、生まれて8カ月で広島に移り18歳で被爆した。子どもの頃の据石さんの目には、B29は「天使のように踊っていてきれいな飛行機」に映っていた。そして、広島湾あたりで白い点が見えて、なんだろうと指をさすやいなや、黄色いオレンジ色の強い光が放れて、目と耳を手で覆った、と当時を思い返す。
据石さんもオバマ氏の訪問を歓迎している。「戦争には双方に責任がある。けんかは1人でできないし必ず相手があること。日本もアメリカも戦争が始まって、互いに厳しい生活を強いられた」とし、謝罪をする必要はないと話す。
難波亘(なんば・わたる)さん(88)はカリフォルニアのアカンポで1927年6月26日に生まれ、広島に移った。18歳の時に被爆した。難波さんは日米関係がとても大切で、オバマ氏の訪問で広島の人たちがアメリカのことをより友好的で身近に感じるようになってほしいと思っている。「謝る必要は無くて、息子や家族を亡くした人たちを心から思っていることを表現することが大切」という。(【下】はこちらから)
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