東日本大震災5年:世界的オペラ歌手ドミンゴ氏「今も私の心は被災者とともに」
世界三大テノールのひとりでLAオペラの総監督も務めるプラシド・ドミンゴ氏。震災から5年が経った今も同氏の被災者への思いは消えない(©Greg Gorman/LAO)
あの日、いったいどれだけの人が彼の歌声に心揺さぶられたことだろう。2011年3月11日に発生した東日本大震災から11日で5年目を迎えた。震災直後、福島第一原子力発電所の事故の影響で多くの海外アーティストが日本公演を中止する中、世界的オペラ歌手でLAオペラの総監督も務めるプラシド・ドミンゴ氏は迷うことなく日本へと向かった。そして予定通り日本公演を決行。彼が歌った「故郷」は人々の心を打ち、震災後の日本に勇気と感動を与えた。震災から5年、ドミンゴ氏に被災者への今の思いを聞いた。【吉田純子】
「あの時のことは今でも忘れません―」。スペインのマドリードで生まれたドミンゴ氏は1949年に両親とともにメキシコに移住。その後世界的テナーとして成長し、その歌声で多くの人々を魅了し続けてきた。 各国の名だたるオペラハウスで公演をしてきたドミンゴ氏だったが、ある時悲劇が襲う。1985年9月19日、メキシコ地震が発生。マグニチュード8の巨大地震によりおよそ1万人が犠牲になり、首都メキシコシティーをはじめ街中ががれきの山と化した。 当時ドミンゴ氏は公演のため海外にいた。しかし知らせを受けすぐに現地に向かったという。「生き埋めになった人々を救おうと必死になって素手で土を掘り分けました。30年以上経った今もあの時の光景が頭から離れず、忘れることができないのです」 この地震でドミンゴ氏は親類を亡くした。この経験から東日本大震災が発生した時、真っ先に思い浮かんだのは被災者とその家族のことだったという。「メキシコ地震で私も親類を亡くし、愛する人を失った悲しみや被災した方々の気持ちは痛いほどよく分かりました。震災後は少しでも日本の人々の辛さや苦しみを一緒に分かち合いたいと思ったのです」 震災の後、ドミンゴ氏は4月に予定していた日本公演を決行した。当時、福島第一原子力発電所事故の影響で多くの海外アーティストが日本公演を取りやめていた。「恐くなんかまったくありませんでした。そんなことより日本の人々と私との間の固い絆、団結心をさらに深めたかったのです」 コンサートの様子はテレビでも放送され、アンコールでドミンゴ氏は被災地を思い「故郷」を日本語で熱唱した。その歌声と彼の姿に多くの聴衆が心打たれた。「この曲を選んだのは日本では誰しもこの曲を知っているから。そしてどこにいてもわれわれは同じ世界にいる、故郷はみな同じなのだということを伝えたかったのです。あの時は日本の人々の前で歌えたことで胸がいっぱいでした」 公演を終えLAに戻ってきたドミンゴ氏は友人でありLAオペラの役員でもあるセバスチャン・ポール・ムスコ氏とともに、震災の被災者への義援金として私財20万ドル(各10万ドル)を寄付した。 親日家としても知られ、これまでに25回ほど日本を訪問しているという。公演だけでなく、1997年には同氏が主催する「プラシド・ドミンゴ世界オペラ・コンクール(Operalia)」が東京で行われ、世界中から才能溢れる若手オペラ歌手が集まった。 日本でもっともお気に入りの場所は京都。多くの寺院があり歴史と伝統が息づいているところが好きなのだという。「日本の人々はいつも親切で、訪れる度に私を温かく迎えてくれました。その優しさと国民性に私は常に心打たれてきました。あの時の義援金はそんな日本の人々への恩返しでもあるのです。私の心は今も震災で犠牲になった方々と被災者とともにあります」 警視庁のまとめによると7日までの東日本大震災の犠牲者は1万5894人。行方不明者は2561人となっている。震災後、LAでも多くの日系諸団体が復興支援のための募金活動を実施。集まった義援金は赤十字やユニセフを通して被災地へと送られた。
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震災後の2011年5月23日、LAオペラ役員のムスコ氏(左端)とともに義援金を米日カウンシルのブライアン・タケダ氏(右端)に寄付したドミンゴ氏(左から2人目)。仲介役を務めた伊原純一在ロサンゼルス総領事(当時、右から2人目)も両氏の支援に謝意を表した【写真=吉田純子】
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