桃井かおり:LA拠点に世界で活躍【前編】
LAを拠点に世界各国の映画に出演し、監督としても活躍する桃井かおり(写真=吉田純子)
2005年からロサンゼルスに拠点を移し、女優、そして監督としても活動する桃井かおり。2月に行われたベルリン国際映画祭では自身が監督、主演、脚本も手掛けた「火 Hee」がフォーラム部門の上映作に選ばれ、出演したドイツ映画「フクシマ、モナムール」は同祭国際アートシアター連盟賞を受賞。世界各国の映画人からオファーを受け、過去10年間で11本の映画に出演。今まさに世界を舞台に活躍する桃井に、監督作「火 Hee」への思いや制作中の裏話、LAでの暮らしについて話を聞いた。【取材=吉田純子】
「過酷な状況で俳優やっていたい」
「なんとなく一人で暮らせるような気がしたのです―」。映画「SAYURI(2005年)」への出演を機にLAでの生活をスタートさせた桃井。当初は芸術家ビザで渡米し、間もなくしてグリーンカード(永住権)を取得。エージェントも決まり、全米映画俳優組合(SAG)にも加入し、LAには縁を感じたという。今では「ここでしか暮らせないほど落ち着いてしまった」と話す。
2月に行われたベルリン国際映画祭のレッドカーペットに登場した桃井かおり(よしもとクリエイティブ・エージェンシー提供)
54歳で日本を飛び出し、一から米国でキャリアをスタートさせた。「19歳から日本で俳優をやっていましたから相当飽きてきていました。日本人の女優は価値があるけれど、年食っていく『桃井かおり』に価値があるのかどうか分からない。やるならなめずに過酷な状況で、緊張して俳優をやっていきたい、そう思ったのです」。新たな挑戦の時は出直すのにちょうど良い時期でもあったという。
「お茶を濁してではなく『お茶の間濁して』バラエティー番組でコメンテーターなどしているより、俳優であることに少しでもしがみつきながら死んでいきたい。ギャラをもらえなくてもこちらで学生と一緒に仕事をしたり、関わった作品が映画祭で賞を獲得したりすると、確実に身になっていることが実感できて嬉しいのです」。LAでは新人の時のような新鮮さを得られているようだ。
舞台を米国に移しても俳優としての厳しい姿勢は変わらなかった。「やはり根性定めないと。英語だけできてもどうにもならない役者をいっぱい見てきました。みんなうまくやって調子よく笑って、プロデューサーに媚売って。私なんて笑いもしません。一番意地悪な目で私を見てくれないと、こっちも使ってもらう気になれないのです」。桃井らしい役者魂がそこにある。
LAに拠点を移してから着実に海外でのキャリアを積んでいく桃井。前監督作で主演も務めた「無花果の顔」は07年のベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画に授与されるNETPAC賞を受賞。その後、各国の映画祭に審査員としても呼ばれるようになった。
「上海国際映画祭ではその年に大賞をとったマリス・マーティンソン監督と『いつか一緒に仕事できたらいいね』と話していたんです。すると次の日の朝に早速企画書を持ってきた。それが『AMAYA 香港コンフィデンシャル』という作品につながっていったのです」
出演オファーの話も次々と舞い込み、メキシコ、ドイツ、ラトビアなど各国の映画に出演。さまざまな国の映画人と仕事をする上で心掛けていることはどんなことなのだろう。「言葉で分かろうとしてはいけないと思います。それは日本語でも同じ。いくら監督と私がコミュニケーションをとれていても映ったものが共有できていないと何の意味もないのです」。ラトビア人であるマーティンソン監督は英語が話せなかったが、撮った映像を見ながら撮影を進めていった。映画作りに言語は関係ないのだ。
LAに来てからは近所付き合いもするようになり、俳優ではない友人も増えた。「普通の暮らしがこんなに良いものなのかって日々実感しています」
時間がある時はベニスビーチで過ごすことが多いという。海の近くでたむろするホームレスともすぐに打ち解け、ちらし寿司やカレーなどを作るとお裾分けすることもしばしば。ある時はいらなくなったスタッフTシャツやコートもあげていた。「彼らって選ぶのね。新品でもいらないものはいらないの。驚いたわ」。一時期、ベニスビーチには桃井があげたTシャツを着たホームレスで溢れていたこともあったという。
そんな日頃の交流は今回の映画「火 Hee」にも生かされた。映画の中ではホームレスの人々も参加。ベニスコミュニティーが撮影に協力してくれたという。後編ではそんな桃井の同監督作品への思いをお届けする。
後編はこちら
ベルリン国際映画祭の会場で海外メディアからの取材に応じる桃井かおり(右)(よしもとクリエイティブ・エージェンシー提供)
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