絶望の淵から世界47店舗を運営するレストラン・オーナーに:ロサンゼルスで花開いたシェフ・松久信幸氏の人生哲学
松久氏と妻の洋子さん。ビバリーヒルズのラシエネガ通りにある「Matsuhisa」の前で(吉田純子撮影)
燃え盛る炎を前にし、ふと頭をよぎった。「あ、もう、ダメだ―」。開店してたった50日で店が全焼。自殺をも考えたほど極限状態に陥る中、絶望の淵から彼を救ったのは妻と二人の子供たちの姿であった。再起をかけた男の挑戦は、ここロサンゼルスで花開き、今や世界5大陸に47店舗を運営するレストラン・オーナーとなった。シェフ・松久信幸氏はビバリーヒルズにある日本食レストラン「Matsuhisa」をはじめ、俳優ロバート・デ・ニーロ氏と運営する「NOBU」のオーナーでもある。本新年号では松久氏の原点に迫り、今を生きる人々へ松久氏からのメッセージと人生哲学、そして夫を信じ続けた妻・洋子さんとの物語をお届けする。【取材=吉田純子】
寿司シェフになった原点 父の面影、海外への思い
1973年から75年にかけてのペルー時代の松久氏(Matsuhisa 提供)
松久氏が寿司職人を目指したきっかけは、自身の兄が連れていってくれた寿司屋だった。「子どもの頃、兄が寿司屋に連れて行ってくれたのです。当時、寿司屋は子どもが行けるような場所ではなかった。引き戸を開け、のれんをくぐり、『いらっしゃい』という威勢のいい掛け声に一瞬のうちに寿司屋の雰囲気に魅了されてしまったのです」。その光景は少年だった松久氏の脳裏から離れず、「いつか寿司屋になりたい」という志を抱くようになった。 小学校に入学して2カ月後、父親が交通事故で他界。「周りの友達が父親とキャッチボールをしたり、自転車の後ろにのって遊んでいる姿を見て、子ども心に『みんなにはお父さんがいてうらやましいな』と思っていました」 そんな時、いつも取り出すのが父の写真だった。松久氏の父は埼玉県で材木商を営んでおり、戦時中はパラオに木材の買い付けにも行っていた。その時、原住民と一緒に写した写真が残されており、少年だった松久氏は寂しくなると父の写真を眺め、「僕も大きくなったらお父さんのように海外に行ってみたい―」と思うようになった。
修業先での出会い
ペルーの松栄鮨の店の前で妻の洋子さん(左)と松久氏
17歳の時、当時新宿にあった寿司店「松栄鮨」で修業を始める。そこで知り合ったペルーの日系2世の男性客から、「ペルーで一緒に店をやらないか」と誘われた。父がパラオで原住民の人と撮った写真をずっと眺めてきた松久氏にとって「南米=(イコール)父」のイメージが思い浮かんだ。そして1972年、23歳の時、ペルー行きを決意したのだった。 同時に結婚して間もない妻・洋子さんも一緒にペルーについて行った。さぞかし不安もあったのではないかと思いきや、「不安など全くなかったです。私も海外に行きたいという思いが根底にあって、もっと世界を見てみたいという夢もありました。お互い海外に対する気持ちが一緒だったのだと思います」と洋子さん。 「今振り返ると、あの時思いきって(日本を)出たから今がある、と思えるのです」と松久氏も話す。
「海外で日本のイメージ変えたい」
当時から松久氏は海外の人々が持つ日本のイメージに違和感を覚えていた。外国映画で日本が紹介される時はきまって着物に琴の音、太鼓などの描写がほとんどだったからだ。
「海外で日本のイメージを変えたい―。日本は映画でみるようなイメージではない。寿司だってもっと洗練されていて、日本はもっと進んでいるんだ、というのを知ってもらいたかったのです。恐さより、チャレンジしてみたいと思う気持ちの方が大きかった」と松久氏は語る。
ペルーの代表的な料理で生魚を薄切りにしソースをかけたティラディート(Tiradito)。写真はホタテのティラディート(©Eiichi Takahashi)
実際にペルーに行ってみると、日本からの駐在員の客が多く、日本で修業した味は非常に喜ばれた。一方で、ペルーでは魚は手に入るが、米や酢などの食材が日本と同じようには手に入らないことに苦労した。 「一番ひどい時には薬局で酢酸を買ってきて、何十倍に薄め、昆布を入れて砂糖と塩で味を付けてシャリ酢を作ったこともありました。『何かしないといけない』というところから『じゃあ何をすればいいのか』を常に考えていました」 しかし3年後、パートナーと意見の相違から店を去ることに。知り合いのつてでアルゼンチンの日本食レストランで職をみつけ、長女が1歳の時、一家はペルーからアルゼンチンへと向かった。 「こういう性格ですから。こうと決めたら、ついて行くしかないと思っていました」。この時も妻・洋子さんに不安はなかった。 住みやすく環境も気候もよく、「南米のパリ」といわれていたアルゼンチンだったが、客がほとんど来ない日々。「1日5、6人程しかお客さんが来ないのです。仕事がしたくても仕事ができないことにストレスを感じ、『自分はこのままでいいのだろうか』と常に感じる毎日だったのです」 仕事ができないフラストレーションと葛藤する中、しばらくして二人目の妊娠が発覚。日本に帰ることを決意する。「もし次女がアルゼンチンで産まれてしまったら、住み心地の良さから僕はこのままここに定着してしまうんじゃないかなと思ったのです。そしたら『このままではいけない』と思ったのです」
海外への思い再び アラスカで店が全焼
4年ぶりに日本に帰るが海外で自由に仕事をした後での日本には窮屈さだけを感じた。 「日本にいるより海外でチャレンジしたい―」。再び海外への思いが芽生えた。そして知り合いの紹介で今度はアラスカへと飛んだ。 しかし3カ月後、予想だにしなかった事件が起こるのだった。 それは店がオープンして50日目、ちょうどサンクスギビングの日のことだった。それまで休みなく働いていた松久一家は友人たちと自宅でサンクスギビングを祝っていた。すると一本の電話が鳴り響いた。 「店が火事になった―。最初は信じられなかったです。窓を開けるとサイレンの音が聞こえ、店の方角に煙が立ち込めているではありませんか。その光景は今も脳裏に焼きつき、私は今でも煙を見るのが怖いのです」 急いで現場に駆けつけると目の前で店が燃えていた。これからという時に火事になってしまった。この時は食事も喉を通らず、水を飲んでも吐いてしまう。「あ、もう、ダメだ―」。自殺をも考えたほど極限の状態に陥った。 「もうこれで仕事ができないんだ、と思いました。火事が原因でビザのスポンサーも取り消しになるなどパートナーとも仲が悪くなり、日本に帰ることを決意したのです」 松久氏にとってアラスカでの火事が人生の中で一番苦しい時代だったという。「人間には二つのタイプがあると思います。追い込まれた時、じぶんの命を絶ってしまう人間と、じゃあもう一回一からやり直そうと思える人間と。僕は一歩間違えたら苦しくてどうすることもできなくて、ひょっとしたら命を絶ってしまっていたかもしれない。でもその時、妻と二人の子供たちがいることにハッと気づいたのです。そして『もう一度やってみよう、焦らず一歩一歩前に進んでいこう』という気持ちが湧き起こったのです。同時に『あの時の苦しみは2度と味わいたくない。あの時には絶対に戻りたくない』と今でも思っています。あの事件があったからこそ、もっと真剣に生きるようになった。自分は強くなれたと思えるのです」
日本に居場所ない スーツケースと現金25ドル持ちLAへ
アラスカから日本に帰国した松久氏だったが、日本に居場所はなかった。「一度南米から日本に帰り、今度はアラスカから日本に帰ってきた。するともう日本では誰も相手にしてくれなかった。自分は完全に負け犬ですから、夢も希望もなかった。もう日本にはいられないと思ったのです」 連絡をしても誰も返事をくれない。いい時は友達ができるけど、悪くなるとサッといなくなるのを身をもって経験した。「あの当時、僕は口を利くのも苦しかった」 一方、アラスカから日本に帰る時、当時ロサンゼルスのサンセット通りにあったインペリアル・ガーデンという日本食レストランに勤めていた知り合いに火事のことを報告した。「そこに関さんという知り合いがいて一度食べに行ったことがあったのです。事情を話すと彼は『もういいからロサンゼルスに来い』と言ってくれたのです」 日本帰国から1週間後、松久氏はその言葉だけを信じて、スーツケースひとつと現金25ドルだけを持ち、単身ロサンゼルスへと向かった。 「あの時彼ももう一度挑戦したかったと思うんです。私ももう一度彼に海外で頑張ってもらいたかった。だから『どうぞ行って』と言ったのです」と洋子さんは当時を思い出す。
LAでハプニング続出 車も自転車も盗まれる
ロサンゼルスに来てから、松久氏は当時ウエストロサンゼルスにあった「三つ輪」という日本食レストランで働き始めた。
日本とロサンゼルスで家族と離れて暮らす日々。当時、国際電話は高くてかけられず、夫妻は手紙を交換して近況を報告し合ったという。
「私もいつも手紙を楽しみにしていました。今でも大切にとってあり、私の宝物なのです」。洋子さんが当時、松久氏に宛てた手紙にはこう書かれていたという。「子供は私がちゃんと育てますから、あなたはあなたの好きなことをしてください。他の人がどんなことを言おうと、私はあなたを信じています」と。「他の人からはわざわざ苦労しに外国に行かなくてもいいんじゃないと散々言われました。けれど、私には『何かこの人ならやってくれるだろうな』という確信があったのです」
1987年にMatsuhisa を開店して間もない頃の松久氏(左)と妻の洋子さん(Matsuhisa 提供)
およそ1年後には家族も来て、一家揃ってロサンゼルスでの生活が始まった。しかし、ロサンゼルスらしいハプニングにも見舞われた。 「車が盗難に遭い、次は自転車まで盗まれたのです。当時はなんで自分だけこんな悪いことばかり起こるんだろうと思いました。でも結局は自分に油断があったのです」 三つ輪のオーナーがサポートしてくれ、松久氏は永住権を取得。「当時は永住権が取れるとお礼奉公みたいなのがありました。しかしそのオーナーはよそで仕事をした方が良い、と後押ししてくれたのです」。その後、王将という店で7年ほど働き、1987年1月、遂に「Matsuhisa」 を開店する。
Matsuhisa 遂にラシエネガにオープン ペルー時代の料理もアレンジ
Matsuhisaはビバリーヒルズのラシエネガ通りのレストラン激戦区に店を構える。移ろいやすいここロサンゼルスのレストラン業界で、今も開店当初からの場所で営業している。
開店当時は現在の店の大きさの半分、38席からスタートした。当初スタッフは7人。市場に買い出しに行き、仕込みをして、休みもなく週7日店を開いた。ランチの後の休憩時間には卵焼きを焼いたり、かんぴょうを炊くなど準備をし、夜も営業し1日の睡眠時間は3時間ほどだったという。
Matsuhisa を開店した当時の松久氏。当時店は今の半分の大きさで、並んで待つ客のために店頭には椅子が置かれていた(Matsuhisa 提供)
メニューは開店当初と今とではだいぶ違うようだ。松久氏のコンセプトは魚を買ったら、全部使い切ること。ひとつの食材があるとありとあらゆる料理ができてしまうという。客から「こういう料理が食べたい」と言われれば、そこからアイデアが生まれることもある。 「ペルー時代の料理を僕流にアレンジしたこともありました」。同店の人気メニューのセビーチェもそのひとつ。当時は誰もセビーチェを知らないような時代。「僕がペルーで初めてセビーチェと出会った時は、こういう食べ方があるのかと感動しました」 当時のペルーのセビーチェは長い間レモン汁に漬かっており、酸化し魚が真っ白になってしまっていた。「ロサンゼルスでは良い魚が仕入れられる。だったら、お客さまに出す前にソースをかけたら、もっと魚の味が楽しめるんじゃないかと思い出来上がった一品なのです」。今ではペルー政府からペルー料理を世界に広めた功績をたたえられ、松久氏は観光親善名誉大使にも任命されている。 「Matsuhisaをオープンした時、『これで本当に自分の好きな料理が作れる』という気持ちで燃えていました。Matsuhisaに行ったらなにかおいしいものがある、とお客さまに思ってもらえる、そういう店にしたいと思っていたのです」と洋子さん。「彼は食材費を気にしませんからね」
「市場でマグロと目が合うと…」 儲けを考えないからおいしい料理が作れる
「市場に行ってマグロと目が合うとマグロが『僕を買ってくれ!』と訴えているように見えるんです。そしたら100キロ以上するマグロだって僕は買ってしまう。誰にも取られたくないんです。買ってしまうと今度はそれをさばかなくてはならない。すると寿司と刺身だけで提供していたら間に合わなくなります。そこで考えるわけです」
少しだけ火を加えたマグロのタタキをサラダと共に特製マツヒサ・ドレッシングでいただく「刺身サラダ」(©Eiichi Takahashi)
トロを焼くと和牛のようにおいしい。だが30年前、トロを焼くことは職人の間ではタブーだった。しかしここはアメリカ。当時まだ和牛もない時代、大胆にも松久氏はトロを焼いてみた。それを箸ではなく、フォークとナイフで提供した。ステーキ感覚で食べられるその一品にたちまち客は喜んだ。 さらに開店当初は生魚が食べられない人も多かった。「ある時、生魚が食べられないお客さまが来店しました。キッチンに行くとちょうどフライパンの上で油が熱くなっていた。それをかけて表面に軽く火を通してお出ししたのです。するとそのお客さまは食べることができた。その一品で新鮮な魚は生臭くないということも知ることもでき、以降その方は食べられるようになったのです」 こうして生魚への抵抗感を消すため生まれたのが刺身サラダだ。 高級食材もふんだんに使い、刺身にキャビアをのせた一品や、料理に金箔をのせて提供したこともあった。 「当時、あん肝がフィッシュパテのようで珍しがられていました。イタリアに行った時、有名なシェフがリゾットに金箔を一枚のせていた。その後、銀座で金箔を買ってきて、あん肝の上にかぶせてみたのです。あん肝の見た目に抵抗がある人もいたので、金箔で隠したら、中に何が入っているか分からない。その上にキャビアを添えてお出ししたら、お客さまは大変驚いて喜んで下さったのです」 後年、隣の店舗も借り、店内のスペースは拡大。客席も増えた。「儲けを考えないで作っているからおいしい料理が作れる。もし儲けを考えて作っていたらおいしいものなんて作れないと彼は言っていました」と洋子さんは話す。
4年間待ってくれたデ・ニーロ 「この人だったら信頼できる」
松久氏(左)が作る料理に惚れ込み、ビジネスパートナーになるため4年間待ったというデ・ニーロ氏(Matsuhisa 提供)
松久氏は1994年に俳優のロバート・デ・ニーロ氏と「NOBU New York City」を開店した。デ・ニーロ氏との最初の出会いは常連客が連れてきた時だった。「ずっと仕事をしていたので、彼がどういう人なのかよく知らなかったのです」。しかし以降、デ・ニーロ氏は拠点を置くニューヨークからロサンゼルスに来るたびに、足しげくMatsuhisaに通うようになる。
「店を一緒にやらないか―」。数年後、デ・ニーロ氏からこう切り出された。しかし当時はMatsuhisaをオープンして間もない時。「まだちょっと早いから」と断った。
しかしそれから4年後、「『もうそろそろいいだろう』とまた声をかけてくれたのです。4年間待っていてくれたことに感動しました。僕はペルーとアラスカでの経験からもうパートナーとは絶対に一緒にやりたくないと思っていたのです。だからMatsuhisaも洋子さん以外にはパートナーはいません。しかしこの人は4年間もずっと待っていてくれた。『この人だったら信頼できる』と思い始めたのです」
ビジネスパートナーの俳優ロバート・デ・ニーロ氏(右)と松久氏(Matsuhisa 提供)
その後デ・ニーロ氏とはレストラン経営だけでなく、ホテル経営にも進出。2013年にはラスベガスに「NOBU Hotel」を開店し、現在は7軒ほど展開する。今後3年間で10軒ほど開店する予定だという。 「デ・ニーロは僕の料理の良き理解者。店に関しては好きなようにさせてくれます。開店の時は忙しくても来てくれるのです」 先日ワシントンDCでレストランの開店セレモニーがあった際、天候が悪く、飛行機が欠航になってしまった。そんな中、デ・ニーロ氏はアムトラックに乗って開店セレモニーに駆けつけてくれたのだという。「気付かれなかった?とデ・ニーロに聞くと、隣のおばさんが気づいたと言っていました。ふだんはプライベートジェットで移動する人なのですが、非常に気さくな人なのです」
健康維持法は運動 家での食事は粗食?!
世界各国の店舗を回り時差と向き合う多忙な日々を送る松久氏だが、健康維持法は運動して汗をかくことだという。「朝起きたら、洋子さんを無理やり起こして一緒に運動に連れて行きます。運動して汗をかくことが精神面にもいいと思っています。また運動している時に一日の計画を立てることもできます」 世界中をまわっていてもホテルにプールがあると泳ぎ、ジムで汗をかくのが日課だという。 また各国の美食家をうならせてきた松久氏だが、洋子さんによると家での食事は意外にも粗食なのだという。「ロサンゼルスに戻ると家では洋子さんが作る食事を食べています。焼き魚やサラダ、カレーライス、とんかつなど。彼女が作ってくれる料理であればどれも安心して食べられる。餃子でもカレーライスでもどれが一番という訳ではなく、作ってくれる物すべてが心地よく食べられるのです」と松久氏は話す。
座右の銘は「継続は力なり」 失敗してもいいから「チャレンジして」
「1+1は2だけれど、人生の算数では1+1はプラス100にもマイナス100にもなる。答えは自分次第でいくらでも大きくすることができるのです。逆に適当にやってしまうとマイナスにもなりうる。頑張った人にはその分成長があります」と松久氏は人生哲学を説く。
さらに、すぐに行動に移すことの大切さも強調する。「一歩中に入ると、たとえどんな仕事でもそれがどういうものだか分かる。考えているだけでは永久に分からない。一歩前に進まなければ何事も始まらないのです。チャンスを与えられた瞬間に『よし、やろう』と決め、そこに入り込むことが何より大事なことだと思います」
好きな言葉は「一生懸命」。座右の銘は「継続は力なり」。
「彼は昔から一生懸命で、お客さまにおいしいものを食べて頂きたい、ただその思いだけでここまできましたから。その思いはこれからも変わることはないと思います」。南米、アラスカでの苦労を共に歩み、松久氏を陰で支えてきた洋子さんはそう話す。
「今自分は若い人たちに対して『失敗してもいいから、チャレンジしなさい』とアドバイスします。失敗から学ぶのも大事なことです。常に前向きに取り組んでいると、いつか相手にも伝わるから」。自らもそういう生き方をしてきたからこそ、この言葉を松久氏は今を生きる人々に送る。
松久氏と妻の洋子さん(吉田純子撮影)
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