舞 鶴 港
先月日本でちょうど終戦記念日だった8月15日、京都市内から山陰線で一日かけて舞鶴の「引き揚げ記念館」を訪れた。以前書いた鹿児島県知覧の特攻平和記念館や長野の出征画学生の遺作展示の無言館を訪問した時と同じで涙を拭きつつ歴史展示を見て回った。 日本の降伏による第二次大戦の終結時、660万人を超す日本人が海外に残された。その地域は主に中国大陸、朝鮮半島、東南アジア、それに60万人のシベリア強制抑留といわれるソ連だった。降伏当初の日本政府は、空襲で荒廃した国土と食糧不足の国情から、海外残留日本人の現地定住の方針を掲げたが、後に日本人一斉引き揚げへと方針転換、昭和20年末から各地日本人の帰還船による引き揚げが始まり、十数の政府指定引き揚げ港の中で最大が舞鶴港だった。 各地から引き揚げは大規模にほぼ順調に進み約5年で大方終ったが、ソ連が自国内に強制移送し強制労働に投入した日本軍人捕虜と民間人の引き揚げは別で、容易に進展しなかった。60万人のうち、数万人が栄養失調や病気で命を落とし、また帰国を果たせぬ残留者もあり、最終的にソ連からの帰還者は43万人といわれる。昭和25年以降、舞鶴だけが引き揚げ港として残り、計13年にわたりソ連や各地からの引揚者を迎えた。受け入れた総引揚者は66万人、遺骨2万柱といわれる。 子供の頃、帰還船の舞鶴到着の模様をテレビの無かった時代で映画館の白黒ニュースでよく見た。生きて帰国を果たした兵士たちが出迎えの妻や母、家族とみな粗末な衣服で泣いて抱き合う場面をいつも見た。一方望みを持って舞鶴港に来たが待ち人帰らず、空しく佇む母親や妻たちの姿もあった。当時ヒットした歌謡曲「岸壁の母」は、戦争が終っても消息不明で帰らぬ息子の帰国を信じて港の岸壁で待ち続け81歳で生涯を閉じた実在の女性をモデルにしている。 舞鶴には昭和45年に港を見下ろす丘に記念公園と同63年に引き揚げ記念館が建設された。記念館は今から2年前に世界が共有すべき資料としてユネスコ世界記憶遺産となった。重い感慨と深い祈りを持って記念館を後にした。【半田俊夫】
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