豊島年昭さんを総領事表彰:和食普及と日本文化継承に貢献
堀之内総領事(右)から表彰状を授与される豊島さん
小東京のすし店「鮨元」店主で南加青森県人会顧問の豊島年昭さんが、当地での日本食の普及と日本文化の継承への貢献が認められ、堀之内秀久総領事から表彰を受けた。15日、総領事公邸で執り行われた表彰式に臨んだ豊島さんは、褒賞を励みに、よりいっそうの尽力を誓った。
豊島さんは1947年、青森県東津軽郡平内町に生まれた。62年に離郷し、神奈川県川崎市のすし店で5年間の見習い後、東京に移り腕を磨いた。73年に渡米、80年に独立した。創作すしとは一線を画し、ねたにこだわる江戸前すしを堅持する日本伝
南加青森県人会会長の奈良佳緒里さん(右)と同時に青森市から観光大使に任命された豊島さん
統の味は人気を呼び、店の前には常に客が待つ繁盛店として知られている。また、2002年に設立され、日本食の普及に取り組む「JRA(米国日系レストラン協会)」では、会長職をはじめ要職を歴任する。 郷里と南加の橋渡しを長年努める。青森県人会の創設メンバーの1人であり、会長に就くなど尽くしている。2007年、LAねぶた囃子保存会設立と同時に初代会長に就任。今年は青森ねぶた祭を招へいし、二世週祭グランドパレードと、ハリウッド・クリスマス・パレードに、中型ねぶたの参加を実現させた立役者の1人である。2月には青森市から観光大使に任命され、青森の観光と物産、文化の紹介に力を注いでいる。 すし一筋に生きる豊島さんは、修業時代について「何もないところから始まった」と振り返り、まさに裸一貫だった。「包丁一本」で海を渡ったのは、全国すし組合「三丁会」からの派遣がきっかけ。小東京にあった「東京会館」の板場を預かり、調理のみならず日本で培った技術も指導、当地すし業界のレベルアップに寄与した。3年契約を終了し一旦帰国したが、確かな腕を買われ再び声がかかり、骨を埋める気持ちで再渡米した。 「お金がなかった」と話す開業当時、銀行から「店の立地条件が悪い」と融資を受けられず苦慮し、他の銀行が救ってくれたという。東京会館からは、無利子で運営資金を借り、1年後に返済した。11年後には、店内を広げ45席から約80席に増え、今
JRAが主催する日本食の試食イベントで、大きなマグロを捌く豊島さん
では板前11人を擁する。 表彰式は、親族と和食業界、青森県人会、ねぶた囃子保存会から招かれた約20人が参列し祝った。総領事と、魚を仕入れる水産加工会社インターナショナル・マリン・プロダクツLA支店長の草柳譲治さん、豊島さんの右腕として26年間働く板前の清水和彦さんが祝辞を贈った。各人が豊島さんの功績はもとより、人柄のよさも称賛し、さらなる活躍に期待を寄せた。 総領事は、豊島さんが店の経営のかたわら、青森県人会を支えまた、JRAでは和食の普及に力を注いでいることを高く評価。ねぶたに関しては「特にLAを代表するハリウッドで、日本の伝統文化を披露したことは極めて意義深い。豊島さんの『何としても、ねぶた祭を成功させたい』という強い思いがあったからこそ、当地で見ることができたと実感している」と、賛辞を呈した。 表彰を見守った野沢一則さんは、映画・テレビ俳優などセレブリティーにも多く愛されたスタジオシティのすし店「NOZAWA」を25年間経営し、3年前に引退した。豊島さんとは日本時代からの旧知の間柄で、豊島さんからLAのすし業界の事情を聞き、後を追って渡米したという。「豊(島)さんのすしはいい」と認める一方で、「(日米で)変なすしが多くなっ
表彰式で謝辞を述べる豊島さん
た。われわれが親方と先輩からいいすしの握り方を習い、それを教えたのに生かしきれていない」と嘆く。2人は厳しい修業を積み、豊島さんのような職人気質は希少な存在であるため、野沢さんは「引退して休んでほしいけど、もう少し頑張って日本の江戸前のすしを伝えて残してもらいたい」と願った。
表彰式の謝辞で豊島さんは、35周年を迎えた店について「よく頑張った喜びでいっぱいで、みなさんの協力がなければ続けることはできなかった」と述べた。「総領事から表彰され、辞められなくなった。まだまだ現役で、輝かなければいけない力をもらい、これからますます頑張っていく気持ちが湧いてきた」と、さらなる活躍を誓った。
豊島さんは人望が厚く「丁稚の時から親方に可愛がってもらい、アメリカに来ても恵まれた。いろんな面でみんなに助けてもらってラッキーだった」と、感謝に堪えない様子である。それらの恩返しとして、小東京の日系諸団体への協力を継続しながら、ねぶたにも力を注ぐ意志を示している。【永田潤、写真も】
表彰式に参列した家族や親友とともに記念撮影に納まる豊島さん(前列左から4人目)
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