60周年記念、盛大に祝う:内田さんの遺志を再確認
鹿児島県からの移住60周年を祝い乾杯する参加者。前列右端が西屋委員長、左端はマーガレット宮内・副委員長
九州南部を襲ったルース台風の被災者に対する米国「難民救済法」に基づいて1955、56年に、鹿児島県から渡米した農業移民の移住60周年を祝う記念式典が6日、小東京のダブルツリー・ヒルトンホテルで盛大に開かれた。1世とその家族ら約160人が集い、移民運動を指揮した恩人の故内田善一郎さんに向け「内田さん、ありがとう」「今のアメリカの生活があるのは、内田さんのおかげ」などと、あらためて謝意を表した。2世と3世は、1世の「薩摩魂」の継承と、「『平和の天使』となって日米親善に貢献してほしい」と、願った内田さんの遺志を再び確認した。【永田潤、写真も】
私財投げ売り、移民運動 「日米両国への恩返し」願う 内田さん 内田さんは53年、派米農業実習生として初渡米した。大規模で機械化された世界最先端の農業技術と農民の豊かな暮らし、広大な大地、米国人の心の広さに胸を打たれると戦後、貧窮にあえぐ鹿児島の若者をどうにかして米国に呼び寄せよう、と私財を投げ売って移民運動に没頭したが、日本人移民は24年に施行された通称「排日移民法」の壁に阻まれてい
記念式典では、2世の子どもたちと内田さんがふれ合う様子がビデオで紹介された
た。そこで諦めないのが、内田さんだ。当時のソ連や東ドイツなど共産政府から弾圧された政治難民を対象にした難民救済法に着目。日米政府に掛け合い、アジア諸国にも適用させた。日本からは、台風など天災の被災農家救済という名目とした。 内田さんは入植した加州北部のサリナスで、鹿児島移住者と協力して切り花の生産に乗り出し、大きな成功を収めた。故郷鹿児島と平和を愛し、ビジネスの成功を還元して日米親善に尽し、両国2件の姉妹都市提携を取り持った。 世話した鹿児島移民との最後の対面は、2006年の北米移住50周年の記念式典だった。病気を押して参加したスピーチでは、移民運動を始めたきっかけを、ニューギニア戦線で戦友を失ったことと説明。2世と若い3世へ向け「平和を尊んで、『平和の天使』になって、日本とアメリカのための活動をして、両国に恩返しをしてもらいたい」と、後を託したその2カ月後に息を引き取った。
鹿児島から希望を胸に渡米
裸一貫からの若者333人
難民救済法を利用した2年間で、鹿児島から平均20代半ばという若者333人が希望を胸に単身、海を渡った。所持金はわずか、身寄りは誰一人いない。まさに、裸一貫からの船出だった。
ビデオで振り返った1世の農園での作業風景
入植地域は、手作業が必要なオレンジやいちご、ぶどう、梨などのフルーツ栽培に適した気候と土壌を備えたカリフォルニアが多数を占めた。若者たちは各住み込み農園で、がむしゃらに働き、日本の家族への仕送りも労働意欲をかきたてたという。 2、3年という農場との契約が済むと、大学で学位を取得したり、農作業の経験を生かした庭園・造園業に就き、その後独立し成功を収めた。妻や子供、親戚、花嫁を呼び寄せ、車を持ち家を建て、米国での地盤を固めた。子女教育には特に力を入れ、多くを医者や弁護士、エンジニア、建築士などに立派に育て上げたことを誇りとする。現在、4世までの鹿児島系移住者家族は、1万人に上るという。
2世と3世、1世に敬意
移民史継承と日米に恩返し
60周年の記念式典には、各世代がほぼ3分の1ずつ揃い、1世は大喜びした。入植後の歩みを内田さんが撮影した映像で振り返り、所属した農園での作業風景や、家族を呼び寄せた船上の様子が紹介された。1世の黒くフサフサした髪の毛に若い顔だち、そして幼い2世の愛くるしい姿を見て、当時を懐かしんでいた。岸田文雄・外務大臣と三反園訓・鹿児島県知事の祝電や、郷土民謡おはら節などが披露され、祝典に花を添えた。
2世主導による難民移民の記録と伝承を提唱するジャネット永峰さん
1世、2世、3世の各世代の代表者が登壇し、鹿児島からの移住者に関する「自らの体験」と題したスピーチを行った。同式典委員長の西屋國弘さんは、戦後の混乱を経た復興途上に移住した56年当時を「財布の中にドル札はなく、入っていたのは家族写真だけ。耐えられない苦しみもあったが、コツコツ働いたかいがあり、一般のアメリカ人以上の教育を受けさせ、今では社会に奉仕できるまでになった。われわれは、一文無しからよくやった」「内田善一郎さんへの恩は忘れない」
2世の4人は、両親が身を粉にして働く姿を見て育ち、教えられた「ガマン」や「サツマ・スピリット」「鹿児島新移民の子孫としての誇り」などを「カゴシマ・レガシー」として継承していることを紹介。ジャネット永峰さんは「それぞれの鹿児島系家族には、後世に伝えるストーリーがある」とし、2世主導による難民移民の記録と伝承の重要性を力説。「子どもたちと孫たちに語り継がなければ、記録は永遠に消滅してしまう。今から始めよう」と訴えた。
3人の3世は、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛がられた思い出はもとより、鹿児島ファンデーションの次世代育英制度の研修生として祖父母の故郷を訪れ、親戚に初めて会ったり、先祖の墓参りをし、自身のルーツを確認したことなどを披露した。それぞれがアイデンティティーを強調し、大きな拍手が送られた。
自身の鹿児島レガシーについて話す3世のジェニファー中間さん
あいさつに立った移住者の活動を支援する鶴亀彰さんは、内田さんの業績と同郷先輩移民のたゆまぬ努力をたたえ「みなさんの最大の成功は、アメリカ社会で立派に育っている2世、3世の成功に象徴される。これこそが、みなさんの最高の成果だ」と力を込め、内田さんの思いの継承に期待を寄せた。
55年移住組の1人の宮内武幸さんは、乾杯の音頭を取ったあいさつで「孫娘が日本政府が招へいするプログラム(JET)に参加している」と胸を張った。「日本で英語を指導していて、こんなにありがたいことはない。最高の人生だ」と熱弁をふるい、敬愛する天国の内田さんに捧げた。
閉会の辞を、内田さんの長男で、新鹿児島移住者の代表を務める誠一郎さんが述べ、「移民運動のレガシーを受け継いで、われわれの日米両国に恩返しをしたい」と意欲を示した。2世、3世に対しては「日系アメリカ人として、日米の絆を強めるための軸となり、『平和の天使』になってもらいたい」と願い「このレガシーを子どもたちに伝える活動は、今日から始まる。連絡を取り合って、また会おう」と、締めくくった。
内田誠一郎さんは、1世が期待する難民移民史の継承に応える意思を持ち「この60周年記念が、2世と3世をつなぐ新しい歴史の始まり。1世のパイオニアに敬意を払い、大和魂と薩摩魂を受け継ぎたい」と、抱負を述べた。
内田さんが60年前に撒いた種は、1世が新天地の大地を懸命に耕し、模範的な米国市民に育てた2世、3世、そして4世が、日米の懸け橋となって実を結んでいる。
「鹿児島県新北米移住者60周年の集い」に参加した1世から3世までの約160人
鹿児島民謡の「おはら節」の輪の中心は2世と3世。郷土文化もしっかりと継承されている
ビデオで映し出された、世話した鹿児島移民との最後の対面となった2006年の北米移住50周年の記念式典でスピーチする内田善一郎さん。病気を押して参加した内田さんは、2、3世に向けて「日本とアメリカに恩返ししてほしい」と、声を振り絞った
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